人物 ま行

  1. 松平清康(まつだいら きよやす)1511-1535
  2. 松平親忠(まつだいらちかただ)1431,1438-1501
  3. 松平親氏(まつだいらちかうじ)?-?
  4. 松平太郎左衛門家(まつだいらたろうざえもんけ)
  5. 松平長親(まつだいらながちか)1455-1544
  6. 松平信定(まつだいら のぶさだ)?-1538
  7. 松平信孝(まつだいら のぶたか)?-1548
  8. 松平信忠(まつだいら のぶただ)?-?
  9. 松平信光(まつだいらのぶみつ)
  10. 松平信康(まつだいら のぶやす)1559-1579
  11. 松平広忠(まつだいらひろただ)1526-1549
  12. 松平泰親(まつだいらやすちか)
  13. 三浦氏(みうらし)
  14. 三浦義明(みうら よしあき)1092-1180
  15. 三浦義澄(みうら よしずみ)1127-1200
  16. 水野忠政(みずの ただまさ)1493-1543
  17. 水野信元(みずの のぶもと)?-1576
  18. 源為義(みなもと の ためよし)1096-1156
  19. 源朝長(みなもと の ともなが)1144-1160
  20. 源仲家(みなもと の なかいえ)?-1180
  21. 源仲綱(みなもと の なかつな)1126-1180
  22. 源範頼(みなもと の のりより)?-1193
  23. 源実朝(みなもと の さねとも)1192-1219
  24. 源通親(みなもと の みちちか)1149-1202
  25. 源行家(みなもと の ゆきいえ)?-1186
  26. 源義家(みなもと の よしいえ)1039-1106
  27. 源義賢(みなもと の よしかね)?-1155
  28. 源義高(みなもと の よしたか)1159-1184
  29. 源義経(みなもと の よしつね)1159-1189
  30. 源義朝(みなもと の よしとも)1123-1160
  31. 源義仲(みなもと の よしなか)1154-1184
  32. 源義平(みなもと の よしひら)1141-1160
  33. 源頼家(みなもと の よりいえ)1182-1204
  34. 源頼政(みなもと の よりまさ)1104-1180
  35. 源頼義(みなもと の よりよし)988-1075
  36. 三善康信(みよし やすのぶ)1140―1221
  37. 以仁王(もちひとおう)1151-1180

松平清康(まつだいら きよやす)1511-1535

戦国時代の武将。
永正(えいしょう)8年9月生まれ。松平信忠の長男。徳川家康の祖父。
大永(たいえい)3年三河安城城主,翌年岡崎城主となり、以後三河の統一をすすめる。織田信秀を討つため尾張守山に出陣するが、天文4年12月5日家臣阿部弥七郎に刺殺された(守山崩れ)。25歳。

松平親忠(まつだいらちかただ)1431,1438-1501

室町時代中期から戦国時代にかけての武将。松平信光の三男。
初め額田郡鴨田郷(現岡崎市鴨田町)を根拠地としていたが、長亨2年(1488)か長享3年(1489)頃に、父が死去したために家督を継ぐ。しかし、間もなく出家して西忠と号した。親忠自身の治績はあまり知られていない。
鴨田郷の館跡に、松平氏菩提寺である大樹寺を創建。
明応5年(1496年)、三男・長親に家督を譲り、隠居。第四子の存牛は出家し、信光明寺住持などを経て、京都の浄土宗総本山知恩院住持を務めた。

松平親氏(まつだいらちかうじ)?-?

室町時代初期の三河国松平郷の領主(あるいは国人)。江戸時代に作成された系譜において松平氏・徳川氏の始祖とされている人物。
親氏は関東公方(あるいは斯波氏の軍勢に敗れ、足利氏の追捕を避けるために出家し、徳阿弥(とくあみ)と称したとされる。
徳阿弥諸国を流浪、三河国加茂郡松平郷に流れ着き、同地の領主松平信重(太郎左衛門少尉)の食客となった。信重は徳阿弥の和歌に通じた教養と武勇を評価して婿養子としたとされており、徳阿弥は還俗して松平太郎左衛門尉親氏と名乗ったという。
松平郷の領主となった親氏は、郷敷城(松平城)を築き、嫡子(兄弟説もある)泰親と協力して「中山七名」と呼ばれる近隣の領主たちを滅ぼし、勢力を拡大して松平氏の基礎を築いたという。
親氏は武芸に通じ、教養があり、信仰と慈悲の心が深く、領内に菩提寺となる高月院を初めとして多くの神社仏閣を建立し、貧しい領民には援助を惜しまなかったという。

松平太郎左衛門家(まつだいらたろうざえもんけ)

松平氏発祥の地・加茂郡松平郷(現・愛知県豊田市松平町)を所領とし、明治維新まで代々この地を領した。


(松平郷・松平太郎左衛門家墓所)

松平長親(まつだいらながちか)1455-1544

戦国時代の武将。松平親忠の三男。徳川家康の高祖父。
明応5年(1496)、安祥城主・安祥松平家として分出。しかしこの頃、隣国駿河国の今川氏親からの攻撃を受けるようになり、氏親の家臣であった伊勢盛時(北条早雲)と戦ったこともある。
この合戦の結果、宗家である岩津松平家は出仕先である政所伊勢家の京都に退避するなど、著しく衰退し、長親の安祥松平家が惣領になりかわったものと考えられる。
また、連歌などの教養にも秀でていたと言う。

松平信定(まつだいら のぶさだ)?-1538

戦国時代の武将。
松平長親の3男(または次男)。桜井松平氏の祖。三河桜井の地を領す。
松平清康に属し、亨禄(きょうろく)2年戦功により尾張品野城をあたえられる。清康の死後自立をはかって織田信秀に通じ、清康の子広忠を岡崎から追ったが、のち広忠に帰属した。
天文7年11月27日死去。

松平信孝(まつだいら のぶたか)?-1548

戦国時代の武将。松平信忠の次男。松平清康の弟。
はじめ三河三木(みつぎ)にすみ、三木松平と称する。天文6年甥松平広忠の岡崎帰城に尽力し、後見となる。のちかつての敵、織田信秀に属して岡崎城の広忠軍とたたかい、天文17年4月15日戦死。

松平信忠(まつだいら のぶただ)?-?

戦国時代の武将。
松平長親の子。三河安城城主。家臣に意見に耳をかさず、一族の心もはなれたため,大永(たいえい)3年子の清康(きよやす)に家督をゆずって出家し、道忠と号した。
没年は亨禄(きょうろく)4年(1531)とも、天文4年(1535)ともいう。

松平信光(まつだいらのぶみつ)

室町時代中期から戦国時代にかけての武将。三河国松平氏3代当主。岩津松平家の祖。
松平氏当主として系譜の史料で実在が確認できるのは信光からで、信光以前の系譜は定かではない。
応仁の乱頃には室町幕府の政所執事伊勢貞親に仕えたと言われる。戦いでは、東軍に属してる安祥城(愛知県安城市)を奇襲しこれを奪い、五男松平光重を岡崎城主・西郷頼嗣の娘婿とし、岡崎城も勢力下とするなど戦国大名としての松平氏の基礎を築き上げた。
異常に子が多く、48人の子供がいたという。自身の子を分立させ、竹谷松平家、安祥松平家(後の松平宗家)、形原松平家、岡崎松平家(大草松平家)、五井松平家(深溝松平家)、能見松平家、丸根松平家、牧内松平家、長沢松平家が各地に置かれた。

松平信康(まつだいら のぶやす)1559-1579

戦国時代の武将。徳川家康の長男として駿府で生まれる。母は築山殿。幼名竹千代,通称は次郎三郎。
永禄3(1560)年の桶狭間の戦ののち,家康が今川氏から自立する動きをしてからも築山殿と共に駿府に抑留され、ようやく同5年、人質交換で岡崎に引き取られた。
同10年織田信長の娘五徳(徳姫)と結婚し、元亀1(1570)年<元服して岡崎次郎三郎信康と称し、家康が浜松城に移ったあとをうけて岡崎城主となっている。
永禄9年末以降家康が徳川姓を称したあとも岡崎信康、あるいは松平信康と呼ばれた。岡崎城に残った母築山殿と妻徳姫との折り合いが悪く、また、家臣の中から武田勝頼に通謀する者が出るなどして、徳姫からの手紙でそのことを知った信長は家康に信康の処分を命じ、天正7(1579)年8月4日、岡崎城を出された信康は遠江堀川城、さらに二俣城へと移され、同城で切腹させられた。一説によると,信長が,自分の子信忠より信康の方が器量がすぐれていたため、将来の禍根を未然に絶ったとも、家康と信康の不和が原因だったともいわれている。

松平広忠(まつだいらひろただ)1526-1549

大永6年生。松平清康の子。徳川家康の父。
天文4年父の死(守山崩れ)で大叔父松平信定に三河(愛知県)岡崎城を追われる。今川義元の援助をうけ、6年帰城。10年刈谷城主水野忠政の娘於大(伝通院)と結婚。今川方の属将として織田信秀とたたかう。天文18年3月6日家臣に殺害された。24歳。
(松平広忠の墓:愛知県岡崎市大樹寺)

松平泰親(まつだいらやすちか)

室町時代初期の三河国の松平氏の第2代当主とされる人物。
親氏が松平郷(愛知県豊田市松平町)の郷敷城(松平城)を築き、近隣の諸領主の平定に乗り出すと、泰親は親氏を助けて活躍した。
親氏の死後、家督を継承して松平氏を近隣十数か村を領有する有力国人領主に成長させた。松平氏が額田郡岩津(現在の岡崎市北部地域岩津町を占領し、西三河の平野部に初めて進出したのは泰親(または信光)の時代とされる。

三浦氏(みうらし)

三浦氏は、坂東八平氏の一つで、平安時代の相模国の「みうら」の地を本拠地とする武家。三浦党(みうらとう)とも呼ばれる。
※坂東八平氏
平安時代中期に坂東(関東地方)に下向して武家となった桓武平氏流の平良文を祖とする諸氏。八つの氏族に大別されていたため、「八平氏」と呼ばれ、武蔵国周辺で有力武士団を率いた代表格の家門である。一般的には千葉氏・上総氏・三浦氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏の八氏が多く挙げられる。

三浦義明(みうら よしあき)1092-1180

源義朝家人で、娘は義朝との間に義平をもうけている。
源頼朝の挙兵に加わるべく子の義澄らを遣わしたが、大雨による酒匂川の増水で間に合わなかった。その帰路に一旦は討ち取った畠山重忠率いる武蔵の大軍に、居城衣笠城(横須賀市)を襲われる。
義明は一族を逃して頼朝のもとに向かわせ、ひとり城に残り討ち死にした。

三浦義澄(みうら よしずみ)1127-1200

三浦義明の子。
源義朝の家人として平治の乱に参加するが、その後は平氏に取り込まれ京都大番役などを務める。
源頼朝の挙兵に加わるが、石橋山の戦いには間に合ず、平氏方軍勢と居城の衣笠城で戦って破れ、父・義明の命で阿波へと逃れて、海上で頼朝と合流した。
頼朝勢が安房に逃れたのは、三浦氏が三浦半島周辺の制海権と房総半島の一部の支配権を握っていたためと思われる。
平氏追討には源範頼の軍に加わり、壇ノ浦の戦いでは海戦能力を高く評価されて先登を命じられた。
幕府のある相模国の守護となり、幕府内での地位は高く、1192年に頼朝を征夷大将軍に補任する書が鎌倉に届いた際、これを受け取る役に選ばれた。
頼家が将軍の際、13人の宿老による合議制のメンバーの一人にも選ばれた。三浦義澄の墓(神奈川県横須賀市)

水野忠政(みずの ただまさ)1493-1543

戦国時代の武将。水野家当主。徳川家康の生母・お題の方(伝通院)は娘で、外祖父にあたる。
尾張国の緒川城(愛知県東浦町)を中心として知多半島北部をその支配下においたが、天文2年(1533年)、三河国刈谷に新城(刈谷城)を築いた。
織田信秀の西三河進攻に協力しつつ、他方では岡崎城主松平広忠、形原城主松平家広などに娘を嫁がせて、領土の保全を図った。

水野信元(みずの のぶもと)?-1576

水野忠政の次男。三河刈谷城主。徳川家康の生母伝通院(於大の方)の異母兄。
織田信長につかえ、桶狭間の戦いののち、家康との仲をとりもつ。のち武田氏へ内通の疑うをうけ、信長の命で天正3年12月27日切腹。

源為義(みなもと の ためよし)1096-1156

祖父義家の養子となり,家督を継いだ。のちに左衛門尉に任じられる。その後京都警備にあたり,摂関家に臣従した。久安2 (46) 年検非違使。
久寿1 (54) 年子為朝の乱行によって解官され,家督を嫡子義朝に譲った。
保元の乱に際して崇徳上皇から召されて白河殿を守ったが,子義朝や平清盛らの属した後白河天皇方に敗れた。東国に逃れようとして失敗,義朝を頼って降伏した。義朝は父の助命を朝廷に願ったが許されず,為義は斬罪に処せられた。

源朝長(みなもと の ともなが)1144-1160

天養元年生まれ。源義朝の次男。平治の乱の敗戦で父や兄義平、弟頼朝ら一族と東国にむかう途中、比叡山僧兵の攻撃で股(もも)に矢傷をうける。進行困難となり,美濃(岐阜県)青墓で平治元年12月29日自害。16歳。翌月2日父に刺殺されたともいう。

源仲家(みなもと の なかいえ)?-1180

源義賢(よしかた)の長男。源(木曽)義仲の異母兄。
父が義平に討たれたため、源頼政の養子となった。八条院の蔵人。
1180年頼政の平氏打倒の挙兵に加わり、宇治平等院で討ち死にした。

源仲綱(みなもと の なかつな)1126-1180

頼政の嫡男。正五位下。隠岐守、伊豆守。
1180年父・頼政と共に以仁王を擁して平氏追討の兵を挙げた。その際、以仁王の令旨を作成した。
しかし、挙兵は失敗し仲綱は宇治平等院で討ち死にした。

源範頼(みなもと の のりより)?-1193

源義朝の六男,頼朝の弟。母は遠江池田宿の遊女。同国蒲御厨(かばのみくりや)に生まれたところから蒲冠者(かばのかじや)と呼ばれた。兄頼朝の挙兵後その部将となり,1184年(元暦1)弟義経とともに源義仲を破り,ついで一ノ谷に平氏を討って三河守に任ぜられる。その後,平氏追討のため中国から九州に遠征、平氏滅亡後も九州の経営に当たった。93年8月頼朝により伊豆修禅寺で殺された。
(源範頼墓:伊豆市修善寺)

源実朝(みなもと の さねとも)1192-1219

鎌倉幕府第3代将軍。源頼朝の二男。母は北条政子。幼名千幡。
1203年、北条時政が2代将軍頼家を倒し、3代将軍に就く。その際朝廷から「実朝」の名を賜り、征夷大将軍に任じられた。
時政が畠山重忠らの有力御家人を倒して実権を握ると、実朝は京の文化と生活を楽しむようになり、夫人も都から迎えて、右大臣の高官を望むようになった。
そのため、御家人の信頼は薄れていき、北条義時は執権政治の基礎を築いていった。
一方朝廷側は、1219年実朝に右大臣の官を授けた。鎌倉鶴岡八幡宮での拝賀式の帰りに、甥の公卿に殺され、源氏の正統は耐え、源氏将軍も3代で断絶した。

源実朝の墓(神奈川県鎌倉市寿福寺)

源通親(みなもと の みちちか)1149-1202

鎌倉初期の公卿。土御門を称した。
平氏との婚姻を通じて政治家としての基盤を築き、また、高倉天皇の近臣として重んじられた。
しかし、平氏の都落ちには従わず、後白河院のもとにとどまり、その近臣としてしだいに勢力を得ていきます。
関白九条兼実と対立、1196年近衛家を擁して九条家を失脚させ、事実上政権を独占した。
後鳥羽天皇が上皇として院政をとると、その権勢を固めた。
また、養女在子を院の後宮にいれ、その王子が即位する(土御門天皇)と、通親は外戚として内大臣となり、鎌倉時代の土御門家繁栄の礎を築く。

源行家(みなもと の ゆきいえ)?-1186

源為義の子。
保元の乱で父が敗れると熊野に身を隠した。源頼政に呼ばれて行家と改め、以仁王の令旨を配布した。
以仁王の敗北後、尾張・三河で平氏と戦い、頼朝に所領を請うたが受け入れられず、源(木曽)義仲に合流して上洛。義仲と対立して紀伊に退くが、平氏滅亡後に源頼朝と対立した義経に協力する。頼朝による義経追討の際、和泉に隠れ住んでいたところを捕まり殺害された。

源義家(みなもと の よしいえ)1039-1106

源頼義の子。石清水八幡宮で元服し八幡太郎と号する。
1051年に勃発した前九年の役に父に従って参戦。1057年黄海の戦いの大敗で頼義以下主従7騎が敵に包囲された際、義家の騎射によって危機を脱したという。
1062年同乱の平定により縦五位下出羽守となる。その後、諸国の反乱を押さえ白河天皇を護衛し1083年陸奥守に就任します。
豪族の清原氏の内紛である後三年の役に介入。義家の調停に反抗した清原家衡・武衡らを討ち、清衡を助けた。
1098年、白河法皇の意向によって陸奥守の功績と過失が定められ、院の昇殿が許され院の側近となった。
その後一族の不祥事が相次ぎ、苦境に陥る中に死去する。

由比若宮境内(神奈川県鎌倉市)

源義賢(みなもと の よしかね)?-1155

源為義の子。義朝は兄、頼賢、為朝は弟。
1139年皇太子の護衛者となるが、翌年殺人犯人に協力したとして解官。以後、父と共に摂関家の藤原忠実、頼長に仕える。
1143年頼長より能登庄を預けられたが、4年後に年貢未進で解任。
1153年上野国(群馬県)多胡郡に下向し、武蔵国の豪族秩父重隆の婿となり武蔵北部に勢力を伸ばすが、1155年義朝の長子・義平の攻撃を受けて武蔵国引く軍の大蔵館で重隆と共に殺された。

源義高(みなもと の よしたか)1159-1184

源(木曽)義仲の長男。1183年父と源頼朝の和睦のため、頼朝の長女・大姫と婚約し、鎌倉に入る。
翌年頼朝によって父が討たれ、自分も殺害されることを知り、大姫の手引きで鎌倉を脱出したが、武蔵入間川原で元暦元年(1184)4月26日殺された。享年12歳.

源義経(みなもと の よしつね)1159-1189

源義朝と九条院雑仕の常盤との間に生まれ、幼名は牛若丸。
父が平治の乱に敗れたことから、各地を放浪し常盤の再婚相手で公卿の藤原長成によって鞍馬寺に預けられる。そこを金昇任の吉次に連れ出されて奥州に向かったといわれます。
兄・頼朝の挙兵に呼応して、駿河国(静岡県)黄瀬川に奥州から駆け付けた。
兄の代官として寿永二年(1183)末から畿内近国に派遣されて、翌年1月宇治川の戦いで源(木曽)義仲に勝利し、2月には摂津一ノ谷の戦いでも平氏を奇襲によって打ち破った。その功により検非違使に就任する。また、頼朝の命により畿内近国で武士の乱暴停止などにより支配権を固めていった。
翌、文治元年(1185)2月には荒波を越えて阿波に渡り、讃岐屋島から平氏を追い払い、3月に長門(山口県)壇ノ浦で平氏を滅ぼした。
しかし、東国武士との争いが絶えなかったことや、頼朝から厳命されていた三種の神器のうち宝剣を回収できなかったこと等から、頼朝との不和が始まります。
頼朝との面会を求めて、捕虜とした平宗盛を連れて鎌倉に下がったが、鎌倉に入ることを許されず、腰越から頼朝側近の大江広元に宛てて弁解の訴え(腰越状)を記したが、願いがは叶わず帰京する。
やがて頼朝から土佐坊昌俊が刺客として差し向けられるなど、身の危険を感じた義経は叔父の行家とともに後白河に迫って頼朝追討宣旨を得る。
しかし、兵が集まらずに摂津大物浦から西国を目指して渡海を試みるが暴風雨に遭い失敗。
白拍子の静とともに吉野に逃れ畿内を放浪したのち、奥州藤原氏を頼って逃れた。
奥州では藤原秀衡の保護を受けるが、秀衡が亡くなると頼朝の圧力に耐えかねた藤原泰衡によって文治五年(1189)に襲われて自害した。

源義朝(みなもと の よしとも)1123-1160

源為義の長子。相模に住み、東国で勢力を拡げた。仁平3年 (1153) 年下野守に就任。保元元年 (1156) の保元の乱では平清盛とともに後白河天皇の陣営に加わり、崇徳上皇方について父をはじめ源氏の一族を討ち果たした。功績によって昇殿を許され、左馬権頭に任じられたが,権臣藤原通憲 (信西) と結んだ清盛の勢威に及ばないのを不満として,通憲と不和の藤原信頼と結んで平治元年(1159)平治の乱を起こした。しかし敗れて東国に逃れる途中立寄った尾張野間の長田忠致によって謀殺された。

源義仲(みなもと の よしなか)1154-1184

平安時代末期の武将。義賢の次男。母は遊女某。幼名,駒王丸。
2歳のとき父が源義平に殺されたのち,乳母の夫・中原兼遠に木曾で育てられ、木曾次郎と称した。勇猛で射に長じた。
治承4 年(1180) 以仁王 の令旨に応じて挙兵し、信濃を制して上野に進出したが、源頼朝との衝突を避けて信濃に帰り、越後の豪族城氏を破って北陸地方に進出。寿永2年 (1183) 越中礪波山に平維盛の率いる追討軍を破り、追撃して京都を占領、左馬頭兼越後守、さらに伊予守に任じられたが、軍隊に統制がなく京都の人心を失い、後白河法皇に平家追討を命じられて西下。
その間,頼朝に義仲追討の命が下った。これを知った義仲は急ぎ帰京し、朝廷を改造するとともに、法皇に頼朝追討の院宣を強要し、同3年征夷大将軍となったが,源義経、範頼の率いる追討軍のため近江粟津で敗死。このときの巴御前の奮戦は有名で,彼女はのち尼となり,越後友松に住んだという。

源義平(みなもと の よしひら)1141-1160

源義朝の長男。鳥羽上皇に登用されて、中央に進出した義朝のあとをうけて、鎌倉を本拠に活動。
久寿2年(1155)8月18日、叔父の義賢(木曾義仲の父)を武蔵国大蔵館に攻め殺し,「鎌倉悪源太」と呼ばれるようになった。
平治の乱には上洛して義朝に従い、奮戦する。敗戦ののち、再挙を期して北国に向かったが、義朝の死を聞いて都に潜入。平家一門の要人に対するテロを企てたが、機を得ないうちに平家の家人難波経遠にとらえられ、京都の六条河原で斬首された

源頼家(みなもと の よりいえ)1182-1204

鎌倉幕府第2代将軍。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で母は北条政子。
父・頼朝の死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、更に3年半後に征夷大将軍となる。母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられたとされるが、当事者である北条氏の史書の記録のみでしか確認できていない。
合議制成立の3年後に頼家は重病に陥ったとされ、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝を担ぐ北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡した。頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修善寺に幽閉された後、暗殺された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握ることになる。

源頼家の墓(静岡県伊豆市修善寺

源頼政(みなもと の よりまさ)1104-1180

蔵人を経て久寿2 (1155) 年兵庫頭となる。保元の乱には後白河天皇方として源義朝とともに戦ったが,平治の乱には義朝に従わず,平清盛とともに行動,仁安元年 (1166) 昇殿を許された。治承2年 (1178) 清盛の推挙により,清和源氏としては異例の従三位に叙せられた。
子仲綱が平宗盛にはずかしめられたことから,頼政の平氏に対する不満が爆発し,同4年後白河法皇の皇子以仁王にすすめて平氏討滅の令旨を得,諸国に触れたが,事が漏れ,宇治平等院の戦いで死んだ。

源頼義(みなもと の よりよし)988-1075

源頼信の子。陸奥守兼鎮守府将軍。武芸に秀で、坂東武士の多くを門客として組織。陸奥の安部頼時・貞任(さだとう)・宗任(むねとう)が反乱を起こしたとき、10余年にわたって苦戦を重ねたが、出羽の清原氏の援護を得て鎮圧に成功。この戦を通じて東国の源氏の地位を確立した。

三善康信(みよし やすのぶ)1140―1221

鎌倉幕府の問注所執事。母の姉が源頼朝の乳母であった縁故から、伊豆に配流された頼朝にしばしば使者を使って京都の情勢を知らせた。頼朝の求めに応じて元暦1 年(1184)京都から鎌倉に下って初代問注所執事となり、法律と京都の政治に関する知識をもとに、幕府の最高級役人として重要な役割を果した。子孫は、太田氏や町野氏など、鎌倉・室町幕府の役人として活動した。

以仁王(もちひとおう)1151-1180

後白河天皇の第3皇子。母は権大納言藤原季成の娘成子。母が摂関家の出でなかったため,才能,人望はあったが,親王宣下を受けられず不遇のうちに成長した。
治承4年(1180)源頼政に奉じられ、平家追討の令旨を諸国の源氏に伝えて挙兵を促した。しかし、計画が発覚し、園城寺を入ったが、興福寺を頼って奈良に逃れる途中で流矢にあたって討ち死にした。

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